こんにちは。小笠原です。
イタリアのフィレンツェにおけるメディチ家の隆盛と共に、「ルネサンス」と呼ばれる芸術運動が興り、芸術文化が花開いた時代となりました。
メディチ家の紋章と足跡はフィレンツェに溢れていますが、この一族はどのようなものでしょうか?
この記事では、メディチ家の歴史や家系図、紋章の意味についてまとめさせてもらいました。
また、メディチ家ゆかりの芸術家の作品や、ライバルのパッツィ家との出来事にも触れていきたいと思います!
目次
「メディチ家」とは何者か?
メディチ家とは、ルネサンス期の芸術家たちを支援した最大のパトロン(才能ある人々を経済的または社会的に支援する人や団体のこと)です。
彼らはフィレンツェでルネサンス芸術を支え、銀行家、実業家、政治家として市を実質的に統治する一方で、多くの芸術家たちを豊かな財力で支援しました。
メディチ家は、ルネサンス文化の隆盛に不可欠な存在
メディチ家がフィレンツェの歴史に登場したのは13世紀となっています。
それ以前の記録はありませんが、医師か医薬品業者、あるいは金融業を営んでいたとされています。
ルネサンス時代に入るとメディチ家は黄金時代を迎え、18世紀までその歴史が続きました。
ルネサンスとは、14世紀のイタリア・フィレンツェに始まった美術運動であり、神を中心とする世界観から古代ギリシャ・ローマの人間至上主義に回帰し、人間の理解の再生を目指しました。
メディチ家が支援した画家
メディチ家が支援した芸術家は、ルネサンス期におけるイタリアの芸術の発展に大きな影響を与えました。
有名な芸術家の中には、
- ドメニコ・ギルランダイオ
- ミケランジェロ・ブオナローティ
- レオナルド・ダ・ヴィンチ
- サンドロ・ボッティチェリ
- ドナテッロ
- ラファエロ・サンティ
などが挙げられます。
メディチ家はこれらの芸術家に対し、財政的な支援や保護を提供し、彼らの才能を発展させることに助力しました。
その結果、フィレンツェはルネサンス期の芸術の中心地として栄え、世界的に有名な作品が生まれました。
「メディチ家」の現在の状況は?
では、「メディチ家は現在どうなったの?」「子孫はいるの?」などと気になる方も多い事だと思います。
メディチ家の血統に関しては、18世紀のアンナ・マリア・ルイーザが最後で、それ以降、途絶えてしまいました。
そのため、現在においてはメディチ家は存在していません。
ですが、トスカーナ公国を支配していた系統が途絶えたものの、コジモとロレンツォを祖先とするメディチ家の子孫は、現代でも継承者として存在しています。
彼らの中には、弊社の名誉理事であるプリンセス・コスタンツァ・デ・メディチを含む6人が含まれます。
このような事実は、ヨーロッパの貴族社会において広く認識されており、最近のメディチ家の研究者によるDNA調査の結果でも正式に確認されています。
「メディチ家」の系譜と歴史は?
家系図の始まりは「ジョヴァンニ・ディ・ビッチ」
メディチ家の系譜は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360年~1429年)から始まります。
この名前は、フィレンツェにおける歴史において欠かせない一族を代表するものです。
ジョバンニには二人の息子がおり、長男は「コジモ・イル・ヴェッキオ」(1389年~1464年)、次男は「ロレンツォ・イル・ヴェッキオ」です。
メディチ家の血統は、兄弟に分かれて続いていきます。兄のコジモの家系は16世紀に途絶えましたが、弟のロレンツォが後を継ぎました。
そして、ルネサンス期の芸術家たちを最も大々的に支援したのは、コジモの孫であるロレンツォ・イル・マニフィコでした。
「フィレンツェ・ルネサンスの黄金期」を築いた当主、ロレンツォの時代
メディチ家の当主であるロレンツォ・イル・マニフィコ(本名ロレンツォ・デ・メディチ)(1449年~1492年)は、若くしてメディチ家の指導者となりました。
彼は多彩な能力と高い芸術的センスを持ち、経済力で芸術を支えることで有名でした。
加えて、ロレンツォの時代はフィレンツェにおけるルネサンスの全盛期でした。
ロレンツォは、ボッティチェリやミケランジェロなど多くの才能ある芸術家たちを保護し、自らが設立した彫刻学校では、少年時代のミケランジェロを指導し、支援しました。
この時代には、サンドロ・ボッティチェッリの名作『プリマヴェーラ』や『ヴィーナスの誕生』などが生み出されました。
「パッツィ家の陰謀」事件が発生
メディチ家のライバルであるパッツィ家は、メディチ家の権力を妬んでおり、「パッツィ家の陰謀」として知られる事件を企てました。
この陰謀では、ロレンツォとその弟であるジュリアーノ・デ・メディチの暗殺が計画されました。
この計画には、メディチ家と対立していたローマ教皇シクストゥス四世も関与していたのです。
そして1487年4月に計画は実行され、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のミサ中に二人は襲撃されました。
ジュリアーノは即死し、ロレンツォは負傷しながらも聖具室に逃げ込み、無事でした。
この事件で、パッツィ家の首謀者たちは逮捕され、12月には絞首刑となりました。
その後パッツィ家は断絶しましたが、ロレンツォはローマ教皇や周辺諸国との和平外交を行い、メディチ家は最も繁栄する時代を迎える事となります。
ロレンツォの息子であるジョバンニによってルネサンスの繁栄がもたらされる
ロレンツォの息子であるジョバンニは、「ローマ教皇レオ10世」として即位し、ルネサンスの全盛期をローマにもたらしました。
レオ10世は、ラファエロやミケランジェロを指名し、サン・ピエトロ大聖堂の改修を進めました。
15世紀末から16世紀初頭には、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといったルネサンスの三大巨匠が揃い、活躍するようになります。
しかし、レオ10世は芸術を愛するあまり、財政を圧迫してしまいました。
大聖堂建設の名目で免罪符の販売を許可したことが、マルティン・ルターによる宗教改革運動の引き金となってしまったのです。
そして宗教改革が始まり、イタリアは宗教対立の時代に突入し、ルネサンスの終焉が訪れました。
さらには、1527年には神聖ローマ皇帝カール5世がローマを略奪し、その結果ローマは壊滅状態に陥りました。
教会が破壊され、文化財が奪われ、ローマにいた文化人や芸術家は殺されたり、他の都市に逃れたりしました。
このローマ略奪を契機に、イタリア・ルネサンスは終わりを告げたのです。
そして1530年にはフィレンツェが共和制を終え、メディチ家はトスカーナ公国の大公としてトスカーナ地方を支配する時代に入りました。
「メディチ家」の家紋とは?
多様性に富んでいるメディチ家の紋章
フィレンツェの街を歩けば、メディチ家の紋章が球を配したデザインが至る所で目にします。
これらの紋章は室内や絵画にも描かれています。
基本的なデザインはオーバル型の台座に複数の球が配置されており、時代とともに球の数が8個から6個に変化してきました。
また、当主ごとに個人紋章も存在し、そのためデザインにはさまざまなバリエーションが見られます。
紋章の図像の中の球は「丸薬」を象徴する
メディチという姓は「医師」という意味を持つため、先祖が医師か薬屋であった可能性があります。
そのため、メディチ家の紋章に配された赤い球は、丸薬や血を抜くために使用されたガラス玉を表していると考えられています。
「メディチ家」に関連する作品とは?
「ボッティチェリ」による『プリマヴェーラ』(1482年頃)
サンドロ・ボッティチェリ(1445年~1510年)は初期ルネサンスを代表する画家です。
ボッティチェリはメディチ家の庇護を受け、ルネサンスの優れた作品を残しました。
中でも特に『プリマヴェーラ』や『ヴィーナスの誕生』は有名ですが、どちらもメディチ家のために制作されました。
『プリマヴェーラ』はメディチ家の結婚を記念して作られ、春の喜びと花々の美しさが描かれています。
この作品は、華やかな時代の雰囲気を見事に表現しています。
ラファエロによる『レオ10世の肖像』(1512年頃)
ラファエロ・サンティ(1483年~1520年)は、盛期ルネサンスの代表的な画家であり、ミケランジェロと競合する存在とされていました。
彼はヴァチカン宮殿のラファエロの間の壁画など、多くの仕事に取り組みましたが、肖像画も多く手がけています。
ラファエロの主要なパトロンであったレオ10世の肖像画はよく知られています。
また、レオ10世はシスティーナ礼拝堂のタペストリーにラファエロが描いた下絵である『ラファエロのカルトン』も注文しています。
彼の作品は、ミケランジェロの『システィーナ礼拝堂天井画』と並んで、ルネサンス期の芸術に大きな影響を与えました。
ミケランジェロによる「メディチ家礼拝堂」の「新聖具室」と「彫刻」(1531年~1534年)
メディチ家礼拝堂は、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂に隣接しています。
礼拝堂を構成する「新聖具室」は、ミケランジェロによって設計され、彼の建築の代表作とされています。
さらに、ヌムール公ジュリアーノ(1479年~1516年:ロレンツォ・イル・マニフィコの息子)とウルビーノ公ロレンツォ(1492年~1519年:ロレンツォ・イル・マニフィコの孫)の霊廟の彫刻も手がけました。
※現在においてはこの作品を見学することはできません。
当初予定されていたロレンツォ・イル・マニフィコと弟のジュリアーノの霊廟の制作は開始されませんでした。
ミケランジェロはローマに移り、システィーナ礼拝堂の壁画『最後の審判』を手がけることになりました。
メディチ家の依頼による「ミケランジェロ」の壁画『最後の審判』(1535年~1541年)
ミケランジェロの『最後の審判』は、ルネサンスの代表的な傑作として知られています。
ローマ教皇クレメンス7世として即位したジュリオ・デ・メディチ(1478年~1534年)は、ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の壁画『最後の審判』の制作を依頼します。
ジュリオは、「パッツィ家の陰謀」で殺害されたジュリアーノの遺児でした。
実際にミケランジェロが制作を始めたのは、次の教皇パウルス3世が再び制作を依頼した1535年からとなります。
この時期は、ローマ略奪後の混乱期でしたが、ミケランジェロはローマにとどまり、制作を続けました。
『最後の審判』は、ミケランジェロの盛期ルネサンス様式から、次のマニエリスム様式へと移行していく事となります。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」と「メディチ家」の関係
レオナルド・ダ・ヴィンチとメディチ家との関係は希薄であった
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロは、ルネサンスの三大巨匠として称されますが、レオナルドとメディチ家の関係はあまり深くなかったことが分かっています。
その理由として、レオナルドがミラノ公に仕えた時、その推薦者がロレンツォであったことや、一時的にヌムール公ジュリアーノに仕えたという記録はあるものの、メディチ家がレオナルドに直接依頼した仕事の記録は確認されていないからです。
一部の研究者は、レオナルドが教養がないという理由で、ロレンツォが彼を評価していなかった可能性も指摘しています。
また、レオナルドの手稿には「メディチが私を造り、そしてメディチが私を破壊した」というメモが残されていますが、その意味については現在においても不明です。
まとめ
今回はルネサンス期におけるメディチ家の功績や現在について解説をしました。
メディチ家はフィレンツェの実業家や政治家として、イタリア・ルネサンスの隆盛を支えた一族であり、メディチ家なしにルネサンス期における芸術文化が花開かなかったと言っても過言ではありません。
500年にわたる歴史の後、18世紀にその血脈は途絶えてしまいましたが、メディチ家にゆかりの美術品は「ウフィツィ美術館」に保管され、散逸することなく受け継がれています。
その為、今日でもその数々の傑作を鑑賞することができます。
今後、ウフィツィ美術館に訪れる機会がありましたら、是非とも名作の数々をご覧になってみてくださいね。
では、今回はこの辺で失礼します。
✅ 電子書籍『ペン画技法解説書』
✅ メール講座『絵の描き方』
✅ デッサン道具の知識
✅ アートで生きていく為の入門書
✅ メルマガ読者特別プレゼント
など、以下より受け取る事が出来ます。
⇩ ⇩ ⇩